新池坊

新池坊

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一人一人の感性を大切に・・・すべての表現を教授いたします。「一人一人の感性を当流の華道理論に基づいて大切にする」が流是です。

▼新池坊の歴史について

華道「新池坊」は創流1910年。
花を愛し花と語り合う・・・。

1.沿革

(1) ( 1910年) 明治43年10月15日 華道新池坊創流

(2) 創流者 一ノ瀬槌衛實利 (号)五畝軒 梅萼

(3) (1923年)大正12年12月28日[関東大震災]初代家元逝去

(4) (1923年)大正12年〜(1932年)昭和7年 初代家元夫人「青蔦」が家元代行

(5) (1932年)昭和7年秋[五・一五事件]
           2代目家元襲名 一ノ瀬省三 (号)五畝軒 梅蕾

(6) (1992年)平成4年11月2日 二代家元逝去

(7) (1993年)三代家元継承、一ノ瀬詔彦 (号)五畝軒 梅岳、現在に至る

 

2.創流の由来

初代家元、一ノ瀬槌衛(号)五畝軒 梅萼は医者であり旧門司市(減北九州市門司区)にある日本セメントの嘱託医として白木崎に病院を経営、側ら趣味の華道を精進、当時、池坊の華務局長まちがいなしと言われるくらいの地位にありました。

当時の華道界の教えは、秘伝、口伝といった秘密主義で、書物も変形文字等、一般の人には解らないものが多かったので、大変進歩的な考えの五畝軒梅萼は、だれにでも解る書物でなくてはならないと、今でいう「翻訳」をし、家元へこの書物の出版を依頼したところ、大変なお叱りを受け、聞き入れてもらえなかったそうです。その時、初代と共に研鑽に励んでいた弟子たちの中にも、進歩的な考えの知識人が多く、当時の流が公開した考えができないのなら、別派を開き、大衆の「いけばな」にしなくてはとの賛同があり、「いけばな」は広く大衆のものであるとの信念で創流された流派です。

この時に翻訳されたのが、皆様ご存知の「生華紳書」で、この書は明治天皇・皇后両陛下天覧の栄誉に浴し、当流の教理となっています。

 

3.華道「新池坊」の名称の由来

当時、初代家元と親交のあった、女子教育の草分けである「下田歌子」女史に、大変進歩的な流派を興すのだから、と、一ノ瀬槌衛が所属していた流派に、あたらしい「新」をつけて、「新池坊」と命名していただいたのが、流名の由来です。

※下田歌子(しもだ うたこ)(1854〜1936年)女流教育家

宮内省御用掛として華族女学校の創立にあたり、1898年に帝国婦人協会、1899年に実践女学校(現 実践女子大)、女子工芸学校を創設、会長および校長となり、学習院教授兼女学部長もつとめた。

1920年、愛国婦人会会長となり、実生活に役立つ教育を目標に女子教育と婦人教育に尽くした。歌才にめぐまれ、昭憲皇太后から歌子の名を与えられた。

下田歌子句

4.流是

初代家元の信念でもあり、遺言でもある、「芸事は一部の人間の指導になりだしたら、芸の幅はなくなる、集まった会員がみんなで切磋琢磨し研究成果を新しい会員に継承し、また、その会員が継承していけば、常に時代を捕らえた新しい作品、また、良い作品は時代が変わっても継承されてゆく」との考え方が流是となっております。

 

 

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